「監視」と「ブランディング」が強化してきた、黒人差別の歴史

黒人の“痛み”をソーシャルメディアで共有することは、ある種のブランディングである──。テキサス大学オースティン校で社会学を教えるシモーヌ・ブラウンは、そう指摘する。黒人と監視の歴史を研究する彼女に、人種差別を利用したブランディングやマーケティング、テクノロジーと中立性について訊いた。
「監視」と「ブランディング」が強化してきた、黒人差別の歴史
JESSICA HILL/AP/AFLO

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テキサス大学オースティン校で社会学を教えるシモーヌ・ブラウンは、著書『Dark Matters: On the Surveillance of Blackness』で、黒人が監視されてきた歴史を考察している。かつてアフリカから奴隷を運んだ中間航路の奴隷船から、抗議デモの参加者を取り締まる現代のツールまで、監視技術が黒人たちをいかにモノとみなし、分類し、抑圧してきたかを研究してきたのだ。

丸腰の黒人男性に警官が発砲する暴力行為が相次ぐいま、大手テック企業の人種差別への抗議表明は懐疑的に受け止められている。黒人の“痛み”をソーシャルメディアで共有することが、どれだけの行動につながっているのか。そして、こうした動きがいかにシリコンヴァレーの文脈にとどまっているのか。ブラウンに訊いた。

ブランディングと焼印

──このところのテック企業は、急に人種差別を気にかけるようになったように見えます。この流れをどのように考えていますか。また、著書『Dark Matters』では監視について考察していますが、そこで書かれていることとはどのようにつながっているのでしょうか。

この本では、奴隷とされた人に焼き印を押したり[編註:焼き印を押すことは、英語で「branding(ブランディング)」と呼ばれる]、売買可能なものとしてマーケティングしたりする行為を歴史の流れのなかで見ることによって、「黒人であること」のブランディングや商品化についで検証しました。また、こうしたブランディングを通じた生体情報の売買についても検証しています。

これは、TwitterやInstagramに黒塗りの四角形の画像を投稿する「#BlackoutTuesday」にも当てはまります。黒塗りの画像は、黒人の痛みやトラウマ、悲嘆、抵抗を商品化するブランディングの機会になっているのです。

アマゾンは「Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)」ムーヴメントへの支持を表明しながら、一方で配送センターでの安全対策の不備を批判する抗議デモを主導した黒人従業員を「賢くないし雄弁でもない」と陰で評して解雇処分としています。また同社は、自社の顔認識技術を規制当局に売るのは当面やめると発表しましたが、アマゾン傘下のRingが扱う監視カメラ付きデヴァイスは依然として警察と提携しています。

関連記事: 米国の警察が使う「アマゾンの顔認識技術」、その利用の一時停止は大きな転換点になるか

このように、企業は黒人が悲嘆にくれ、怒り、声を上げているときにマーケティングし、ブランディングの機会と捉える一方で、黒人差別問題の一端を担ってもいるわけです。これはアマゾンに限ったことではありません。

──マーケティングにおけるブランディングと、肉体的な苦痛を与える「焼き印を押す」ブランディングとを結びつけたことはありませんでした。かつては、逃亡した奴隷にも焼き印が押されていましたよね。「#BlackoutTuesday」では、黒人であることの痛みを広く知らしめられるようになった一方で、ハッシュタグを使った人は自分の情報を開示したゆえに広告のターゲットにもなってしまいます。また、警察がソーシャルメディアを活用していることも周知の事実です。

イメージされている現象からは少し離れてしまうかもしれませんが、こんな例もあります。

「#BlackInTheIvory」というハッシュタグがありました。大学に在籍している教員や学生、職員が人種差別の体験を語るタグです。そこへ、おそらく白人と思われるある人が、このハッシュタグを含む投稿をデータ化したのです。

元々の意図は研究の世界に多様性を取り入れよう、大学の現場にいる人の体験を記録に残そうという目的だったのでしょう。ですが、誰も当事者の了承をとっておらず、投稿者がハラスメントの標的にされる危険性も明らかでした。分析のために集められた「#BlackInTheIvory」のツイートは10,000件以上になっています。結果的にこのデータ化はとりやめになり、本人は謝罪しました。

こうしたツイートがどうターゲティングに使われるのか、考えてみました。例えば、SNS監視ソフトウェアを開発しているGeofeediaという会社がボストンの警察と提携し、GPSと顔認識技術を使って「#BlackLivesMatter」のハッシュタグを使った抗議デモの参加者を特定した例があります。

これもマーケティングと地続きで、黒人を「金に換えられる」「売れるモノ」として扱っていると言えます。

人々の間に染み込んだ黒人像

──著書では、監視の目を見返したり避けたりする行動や、その功罪についても考察しています。それを踏まえて、警察の暴力行為を撮った動画が拡散される事象についての考えを聞かせてください。撮影者のなかには、暴力をふるった警官本人よりも先に逮捕された人もいます。

テレビ番組などを考えてみましょう。放送打ち切りになったリアリティ番組「全米警察24時 コップス(Cops)」についても、配信が一時停止された映画『風とともに去りぬ』についても言えることですが、世の中には誰かにつくられた黒人像を表す例が無数にあります。こうした黒人像が、人々の黒人に対する見方を形成しているのです。

哲学者ジュディス・バトラーは、こうしたステレオタイプが染み込み、飽和状態になって形成されたわたしたちの視野を「人種的に飽和した視界」と呼んでいますが、まさにこのことだと思います。(1992年のロサンジェルス暴動のきっかけとなった)ロドニー・キングが警官から暴行を受けて抵抗する様子を撮った動画がありますが、これを見てキングが不当に抵抗している、暴力行為をしていると解釈する人もいるわけです。黒人男性は暴力を振るう可能性のある存在とみなされることが常なので。

そこで思うのは、かつてリンチ現場の写真を使ったカードが出回り、やりとりされたのと同じように、現在は動画が出回り、やりとりされているのではないかということです。なぜなら、自分とは違う視点で人種を捉える人がいて、別の解釈をする可能性もあるからです。それは動画に対する反応を見てもわかります。

黒人たちが命を落とすような人種に対するステレオタイプが“飽和”している状態にあるいま、わたしは現状とどう戦っていけばいいのかわかりません。警官に拘束された黒人女性が「あなたはいまに職を失う」と言いながら踊る動画が拡散していますが、ここにも陽気さがあり、哀しみがあり、痛みがあり、それとともに生き抜く姿が表れています。それは……言葉にするのが難しいくらいです。

カメラにはカメラで対抗を、といった「テクノロジー決定論」を唱えるつもりはありません。それでうまくいくわけではありませんから。動画に撮っても、それだけでは監視の目や白人至上主義に抵抗する黒人にとって本質的な違いは生みません。

ただ、自分たちが語り、自分たちの側から見たその出来事の解釈を動画が示すことで、白人至上主義の存在を浮き彫りにし、それに立ち向かう何らかの後押しになります。それがいま起きているのです。それでも、黒人の死がそこにあるのですが。

しかも、わたしたちはそうした動画を、Instagramのような場所で共有しています。いつでも消去できる場所で共有しているのです。

プラットフォームによる取り締まり

──警察に関しては、文字通りの意味の取り締まりもありますが、そのほかに二次的な取り締まりもあります。こうした動画をFacebookやInstagramに投稿すると、コンテンツモデレーションの対象になり、シェアやリコメンド機能のアルゴリズムに引っかかりますよね。ソーシャルメディアに動画を上げるときに重要なのは、できるだけ広く拡散され、できるだけ多く視聴されることであって、そこに批評的な目はあまりありません。削除される場合もありますが、暴力もコンテンツのひとつのかたち、エンターテインメントのかたちになってきています。これは、さっきおっしゃったリンチ現場のポストカードとも似ていますが。

リンチに加わっている白人が死体を撮影し、カードにして配り、死者の一部を持ち去る行為は、白人コミュニティの構造の一部でした。こうした一連の儀式化された行為が、白人至上主義の構造にあったのです。では、現代ではどんな行為がこの儀式にあたるのでしょう? 現代にも、YouTubeを通じておこなわれ、広められている儀式があります。

その儀式とは「取り締まり」です。ただし、ここで言う取り締まりは、InstagramやFacebookなどのプラットフォームを介してなされる取り締まりのことを指します。警察による取り締まりとは違いますが、やはり国家か国家に近い存在が、黒人の命や黒人の抵抗運動を統治している点は同じです。

いま、Facebookがトランプ政権に協力的なのは市民もわかっています。その上で「こうしたテクノロジーは必要なんだ」ともっともらしく言われても、納得できるはずがありません。

ものの見方を形成するのは、テクノロジーではない

──黒人にとっては、動画の拡散は運任せの最終手段と言ってもいいかもしれません。黒人の死を巡ってお祭り騒ぎをする人たちがいる一方で、エメット・ティルの母親の行為[編註:1955年、白人女性に口笛を吹いたとして14歳の黒人少年エメットがリンチを受け死亡した事件。母親は残酷な死を遂げた息子の写真を公開し、社会に訴えた]に近いケースもあります。この手段をとると人々は白人至上主義の凄惨な暴力性を突きつけられ、極めて耐えがたい苦痛と公正でない現状を目の当たりにしますよね。少なくとも国や裁判所や警察の言い分だけでない、相対する視点からの声を聞く機会になります。

そうですね、最後のよりどころのような位置づけで、白人至上主義のもとで生きる黒人の姿が、テクノロジーという手段を使って白日の下に晒されます。物事を変えるだけではだめで、抵抗すべき類の監視に黒人たちが屈することを余儀なくされますが、戦略的でもあります。ただ、実際にどう規制されているかというと、コンテンツモデレーションであれネット上の賛同の表明であれ、大きな力の不均衡の存在が明らかになります。

以前から素晴らしいと思っているのが、プリンスの「支配者を自分のものにしなければ、自分が支配者に所有される」という言葉です。いまわたしたちが手にしているのは、こうした戦略的な取引なのです。わたしたちは物事をふるいにかけると同時に、自分たち自身もふるいにかけ分類されています。インターネットでサイトを訪れたりキーワードを入力したりするたびに、細かく監視されるのです。

──誰かが「テクノロジーは中立ではない、テクノロジーにはバイアスがかかっている」と言うと、わたしが決まった反応をする理由はそこにもあります。あえてそう言わなければならないのは、たとえ概念であっても人は中立性に安心感を覚えることを示していますね。

そうです。そのためには、白人の視点から、白人の多くが抱いている「白人は中立」「警察は中立」という見方をひっくり返す必要があるのです。すべては、白人たちが歩んできた歴史がかたちづくってきた物の見方です。

テクノロジーが悪いという考えを手放すこと、そして白人至上主義や黒人女性への蔑視やトランスジェンダー嫌悪の実践に使われてきたテクノロジーが悪いという考えを手放すことも、おそらく多くの人にとって利があることでしょう。「テクノロジーがそうさせたんだ」と言うのは、見え透いた言い訳だとわたしは思います。

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TEXT BY SIDNEY FUSSELL

TRANSLATION BY NORIKO ISHIGAKI